旧統一教会の社会問題化は必然?

 私は、統一教会の元二世信者である。
 両親に連れられて教会に通うだけの二世信者ではなく、みずから学び、指導もしてきた。
 その崇高な教えとは程遠い現実を目の当たりにし、教会を去った。
 現在は、ごく平凡な家庭を築いている。

 以下はそんな私の旧統一教会での体験談である。

 

 教会の日曜礼拝で以下のような話を聞いたことがある。

 旧統一教会の現総裁である韓鶴子氏のことである。
 「韓総裁は、自身の前で芸を披露するために韓国へ訪問した数十名の日本人の団体に対し、帰りの飛行機をキャンセルさせてまで、もてなしの場を設け、お土産までくださった。」
 この話を聞いた教会員たちは 「韓氏の懐の深さ」に深い感銘を受けた。

 しかし私は、感銘を受けるどころか、複雑な感情を抱いた。

 飛行機のキャンセル料等は誰が支払ったのか。誰が払ったにせよ、数十名分のキャンセル料や追加の航空費用などは、まぎれもなく教会員の心からの献金が原資となっている。
 金銭感覚がおかしくなっているのか、教会員の献金を何とも思っていないのか、どちらかに違いない。

 

 またある時、私はとある地区の地区長と面談する機会があった。
 その地区長は、黒塗りの高級車を公用車に購入したり、神殿のような教会の建設に取り組むなど、剛腕でワンマンなスタイルで知られていた人物だ。
 私は「何故大枚をはたいてまで教会を大きくする必要があるか」と問うた。
 その問いに対して彼は「神聖な神殿に神聖な精霊が宿る」という趣旨の回答をした。

 私は、教会員を犠牲にしてまで必要な施設なんてありはしないと思った。
 教団のトップや幹部が、献金の背景にある教会員の真心や犠牲を感じ取れなくなっているのならば、次第に求心力は薄れ、崩壊の一途を辿っていくはずだと当時考えていた。
 それが今まさに、山上徹也容疑者の安倍元総理銃撃事件に端を発し、現実のものとなりつつある。